2012年3月12日月曜日

レディヘのジョニーはリゲティを意識している説

こんにちは。関西にいるのも残りわずかとなってきました。周りが海外旅行なんぞの写真をFBにアップして自身の充実した生活ぶりをアッピールしているのとは対照的に、僕は図書館通いを続けています(別に勉強しているわけでは決してない)。僕の学部生としての生活はまだまだ終わっていないようです。





『ノルウェーの森』(映画の方)の動画がとあるサイトにアップされていたので、一年ぶりに観かえしてみると、やっぱり悪くない映画だと再認識した。特に菊池凛子が死んだ後にマツケンが岩礁の上で泣きまくるシーンがすばらしい。「いろいろストーリーをすっ飛ばしすぎて話がよくわからねーよ」という原作ファンの憤りは確かにごもっともだが、映像美と音楽の組み合わせでキャラクターの心情を語るのがこの映画の主眼だと思われるので、オリジナル脚本のフランス映画だと思い込んで観ればそこまで怒りは感じない。
※件のマツケン号泣シーン。 (下の動画13:00頃から)

Norwegian.Wood.2010.KSTJ. Part 6 投稿者 trung_9x
荒々しい海の絶景と不協和音で構成された現代音楽を組合わせて禍々しい雰囲気を作り出す。これを観て僕がすぐに想起した映画が、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』という映画である。この映画はオープニングから、荒野の絶景と不協和音を組み合わせたシーンが出てくる。後から調べると『ノルウェーの森』も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と同様にレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが手がけとるらしい。
※『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のオープニングシーン
http://www.youtube.com/watch?v=hUush-WrMrM&feature=fvst


そして、この映画のファーストカットおける映像と音楽の組み合わせは、キューブリックの『2001年宇宙の旅』にそっくりである。『2001年~』の類人猿がモノリスに触れることで初めて道具を使用するシーンで、現代音楽家であるジョルジュ・リゲティの『レクイエム』という曲を流しながら、荒野を映している。
※『2001年宇宙の旅』(1:55あたりから不吉な音楽が流れ始める)


http://www.youtube.com/watch?v=ML1OZCHixR0

この繋がりを考えると、レディヘファンはジョニーの作る映画音楽の独創性を評価する前にキューブリックとリゲティを評価するべきである。(※『2001年宇宙の旅』以前に同じようなシーンを撮った映画があればご指摘ください。)
 
 ところでどっかの記事で、映画館で映画を観る意義について誰かが「絶景を大スクリーンで観ること。」と述べていたように、これらの風景描写の本領を発揮するのは映画館のスクリーンであると思われるし、ジョニーやリゲティなんかの音楽は、ちゃんとした音響施設で聴くことでトリップできる代物であるように思われる。こういった意味でも、『ノルウェイの森』の初見を飛行機の座席に取り付けられているショボい映像機器で済ましてしまったことを後悔するしかない。 

ということでなるべく映画は映画館で観ようと思ったのでした。

2012年3月5日月曜日

お久しぶりに映画のことでも パート2

そろそろ「です・ます」調の書きぶりに飽きてきたので変えようと思います。

 実は先日投稿した『ヒューゴと不思議な発見』と同日に『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは傷つきながら、夢を見る』という映画も鑑賞した。これは題名の一部をQueenの曲名からパクっているという事実を差し置いても、アイドル映画であることが一目瞭然で、チケット売り場で「AKB一枚」と男一人で発言することがかなり憚られる映画であることは間違いない。ただし、事前の調べによると批評家たちからの「映画としての」評価が割合高かったので、「まぁオタ以外にもチケットを買う人は大勢いるに違いない。」と余計な計算をしてから、チケを購入した。(まぁかく言う僕もアイドルは嫌いでないので、AKB観たさで観に来る客と大差ないわけだが。。)すると驚いたことに、明らかにオタっぽい客はほとんどおらず、語弊を恐れずに言うとそれなりに「成熟している」ように見える人たちがほとんどであった。僕の余計な計算は思いのほか当たっていたのだ。 そして、その客層が物語るようにこの映画は丁寧に撮影編集された上質なドキュメンタリーであったと思う。通常ならばアイドル映画というと、当のアイドルの魅力を最大限に見せるように撮るはずであるが、この映画ではむしろ逆で、客席でアンコールと叫ぶファン達やアイドルで一儲けたくらむ大人達によるプレッシャーが彼女たちを精神的にも肉体的にも蝕ばむ様子をありありと映し出す。そして観客はスクリーン上で傷つく彼女たちを観て面白がるという、大変ドSな仕上がりになっているのだ。 たとえば、もっぱら白眉だといわれているのが総選挙のシーン。ディフェンディング・チャンピオンであるところの大島優子が前田敦子に王座を奪還された際、ステージ上では飽くまで彼女が気丈にふるまい前田を祝福する光景が映される。この大島優子の性格こそが彼女の持ち味であり、ファンに支持されるゆえんであろう。ところがステージが平和のうちに終了し、メンバー全員が裏へはけた後の大島には笑顔がなく、雰囲気を察した篠田が彼女に近づいた瞬間・・・・ どびゃーーー と泣き崩れる。この瞬間、オタは今までの自分たちの応援が裏で彼女に壮絶な圧力を加えていたことに反省を迫られたはずである。 映画ではこのような観ていて気まずくなるようなシーンが多々ある。主要メンバーが舞台裏で失神しているにもかかわず、アンコールによってステージに戻され、歌い、踊り続ける(歌ってはいないが・・)。そして彼女たちはこのような苦痛によって、泣く。泣く。そして泣く。これが2時間続くのである。
 ところで思うに、映画において登場人物が何らかの苦労を背負うとき、その苦労にある種必然性がなければならない。さしあたり、①ある行為によって苦労をしなければ生活ができない、または将来のステップアップにマストの条件であるという必要性に基づいたインセンティブ。あるいは②苦労をしてでもその行為が「好き」であるというインセンティブが考えられる。この点、二十歳を超えた主要メンバーにとってAKBというグループでアイドル活動することが自身の身を立てる手段であり目的なのであるから、苦労の必然性が明快であり、随所に出るメンバーの号泣するシーンには意味があるというものである。またボロボロになりながらも前田敦子のステージへの執念を見せる姿も理解できる。
 しかし許せないのは、映画の後半に出てくるAKB内の「チーム4」という新人ばかりが集まったグループの活動のシーン。このシーンにおいて当の新米メンバーたちは、大島などのメンバーと同様にことあるごとに号泣する。なぜこのシーンが許せないのかというと、彼女たちには前田や大島らと違ってAKB内で苦労する理由があるように見えないからである。本当に彼女たちにとって「AKB48内で」努力する必要性があるのだろうか、あるいは本当に彼女たちはアイドル活動が好きなのだろうか。新米メンバー達の涙の動機はすでにお茶の間で人気となっている主要メンバーよりも丁寧に描かれなければ空回りするのに、それがない。その結果・・・



お前らの涙、ぺラッペラやな!!



と感じざるを得なかった。謹慎中のメンバーが帰ってきたぐらいで号泣するんだったら、アイドルやめればいいじゃん。そっちのほうが楽だろ。時間の都合で、あまり有名でないメンバーの内面に迫るところまでは描けないのなら、チーム4のシーンは全部要らなかったように思われる。


 面白いところはいっぱいあったんだけどなー。たとえば総選挙の1位と2位がいよいよ発表されるという場面での、前田敦子に対するショット。そこに偶然一緒に映った横のメンバーがなぜか祈っている。絶対に名前が呼ばれるはずもないメンバーがなぜ手を組んで祈るんだよww派閥でもあるのか?  あるいはステージ裏でボロボロになって倒れる前田を映したシーン。そこで偶然バックに映った他の無名メンバー達。出番が少なく体力も残っているため立ちつくして、倒れる前田を見る。倒れる前田に可哀そうに思う観客とは裏腹に、これらのメンバーはむしろ「倒れるまで出番があるなんて、うらやまー。」と思っているに違いない顔をしている。こういう偶然に可笑しいもの映るというのがドキュメンタリーの良さだったりするのかも。


 まぁトータルで考えたら面白かった。これで僕の押しメンである秋元康はさらに大金を稼いだのである。まことにうらやましい話である。

2012年3月2日金曜日

お久しぶりに映画のことでも

お久しぶりです。ブログを始めたと言いながら数回更新したのみで一年半も放置してしまいました。三日坊主とはこのことか。以前のポストが昔すぎて、内容が青くてとても目が当てられません。
 そんな怠惰な性格をネットに晒しまくっている僕ですが、この後に及んでまた日記を書こうかと思ったのは、一つに割と暇であること、二つに今日たまたま見た映画について一言述べたい気分になったからであります。

『ヒューゴの不思議な発明』
 ご存じスコセッシ監督。トレイラーを見る限り、モロにCG感が出ている映像に走り回る少年といういつもと違う雰囲気に怪訝な気分になります。当の本人も「(撮影監督のロバート・)リチャードソンが、まるでフィルムで撮ったような素晴らしい世界を作り上げてくれた。やっぱり新しい技術を学習することは大事だと思ったよ。」などと角をヤスリでこすりまくったような丸い発言をしていたため、期待半分と(ヒップホップ用語を用いて本当かっこうが悪いですが)セルアウト感が作品に現れていないかと心配半分を抱いて観に行ったわけでありますよ。
 舞台は第一次大戦後のフランス(だと思う)で、主人公のヒューゴが父親を亡くと日々孤独にさいなまれているという初期設定。父が拾ってきた壊れたゼンマイの人形(ほぼロボット)だけが心のよりどころであり、それを修理するために必死に生きている。そんな中、当の人形と深い関わりのあるらしい老人に出会う。その老人はどうやら実在した映画監督ジョルジュ・メリエスという設定のようで、彼は自身の映画に対する愛とは裏腹に戦争を経て誰も映画を観なくなったことにひどく絶望している。そしてそれを知ったヒューゴは人形の修理を通じて、老人の閉じきった心を開こうと試みる・・・
 まぁありがちですし、プロット的に首をかしげた箇所はありました。まずヒューゴの父親の死に方ががちょっと雑です。父が部屋の扉を開けたら火事の炎がボー・・・次のカットで父死亡。これだけではあまり悲劇に見えず、その後父を亡くした主人公の孤独があまり深刻に見えない。。またそもそも、話の肝であるヒューゴのネジ巻き修理とメリエスの映画愛復活の過程が上手く噛みあっていないようにも感じました。
 しかしながらそれでもこの映画を観終わって半日経った現在でも、この映画のことが僕の頭から離れません。というのも、物語中盤からスコセッシの映画愛(というかフィルム愛)と強烈な孤独という表裏一体の精神性が透けて見えはじめたからです。一方では、背が低く全くモテない映画オタクの少年スコセッシの孤独をヒューゴの孤独として描き、他方で自らの人生を捧げたフィルムがデジタルによって駆逐される現実、あるいは好きで好きで仕方のなかった映画が自分が老いたころにはもはや社会にとってどうでも良くなってしまった現実に対する絶望をメリエスの心の閉鎖として描いています。そう考えると、一方でヒューゴが「修理」という自らの情熱を追求し、しょぼくれたメリエスを復活させて社会における居場所を見つけた瞬間、あるいは他方で、メリエスが一握りでも自己の作品に深く共鳴する人がいることを認識し再起する瞬間などは、スコセッシの強いメッセージを感じずにはいられなかったのです。
 映画にせよ何にせよ一つのものに情熱を傾け、それが己の人生すべてを捧げても良いという極まで達すると、それ以外のたとえば恋人、家族、友人を持って適当に幸せを得るようなことはその人にとってあくまで些末なことにすぎないのでしょう。しかし、同時にその情熱に何者も共鳴しなければ、その人生は強烈な孤独というおまけ付きで空回る危険を常にはらんでいるはずです。このような深刻な不安に対してスコセッシは、「いやいやむしろ逆www お前自身の追求こそがお前が社会と繋がるチャンネルじゃね?」とでも言っているかのようでした。作中、ある映画史家がメリエス宅を訪れて、しょぼくれメリエスに「幼い頃からあなたの作品全部観てますよ。」と感慨深げに語るシーンなんかはもう。。図らずも映画館で号泣してしまいました。
 そしてフィルムに対する情熱をデジタルのしかも3Dで映すという。。。おしゃれすぎるやろ、その作り。インタビューでは上のような暢気なことを宣いつつ映画は「フィルムなめるなよ。」とでも言いたげな内容で燃えます。
 ちなみに、駅の公安役に『ブルーノ』でおなじみサシャ・バロン・コーエン(最近なぜかチョムスキーと対談したとかいう)が出てきたり、作中に出てくるギター弾きが実はジャンゴ・ラインハルト(ギタリストなら皆知っているレジェンダリーな音楽家)という設定だったりとそういう細かいところもまた面白い。ジャンゴ・ラインハルトって・・どんな設定www
 もちろん3Dの効果が最大限に活きるような映像だったし、その点でも観る価値があります。関係ないですが、『アバター』のジェームズ・キャメロンがスコセッシに「もっともすばらしい3D映画だ」と上から目線(と思われる)で言ったらしいですね。ピラニア3Dについては「こんな映画に3Dを使ってほしくない。」などの発言もしていただけに、彼の開祖としての振るまいっぷりが目につきます。
 

そんな感じでこの映画はおすすめです。月世界旅行か、某貴族と観た記憶が・・・