2013年3月16日土曜日

トリュフォーやハネケの感想など

今日は、池袋でロメールオールナイトの日というのに、訳あって参加適わず、無念。ここ最近は約半年にわたる通過儀礼のせいで、ろくに本来の生活ができていない。湯水のように学費を無駄にしているだけである。


 ところで、先日はトリュフォーのドワネル物5本を映画館で観た。『大人は判ってくれない』はやはり素晴らしいと思う。ジャン=ピエール・レオの不良少年の演技がよい。大人に見放された普遍的な子供の姿を丁寧に映している。こんな少年、小学校、中学校に一人や二人いた。いや、僕の地元にはもっとたくさんいた。
 だが、その続編が同じように良いかと問われれば、全くそんなことはないと思う。とくに『家庭』や『逃げ去る恋』では、トリュフォーの真剣さを疑ってしまった。おそらくギャグでもなんでもないだろうところの演出で可笑しくて笑ってしまった。

 
 そして昨日、新宿武蔵野館で『愛、Amour』を観た。映画関係者はもっとまじめに邦題を考えてあげてほしい。この感想は、時間がないのでまた後日にしたいと思う。そういえば、先日書くと予告したモーニング娘のこともまだ書いてない。こうして自発的に書いてるはずのブログの記事すら、後回し後回しになっていく怠惰よ。

では。
 

2013年2月18日月曜日

ギミックとしてのひらがな

今日やっと齢七十五にして芥川賞を受賞した黒田夏子氏著『abさんご』を読み終えた。この「やっと」というにはそれなりの理由があって、本作の文体が「ひらがな」の多用という非常に独特のそれだったからである。例えば・・・

「aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと、会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが、」(本文引用)

 など。うん、これは読みにくいですな、下手するとおおこけする類のものじゃないか、などと訝しく読み始めたものの、最後は納得して本を閉じて電車を降りた。
 つまるところ、文体と内容の関係である。筆者自身の限りなく遠くの記憶を断片的にかつ曖昧に拾い上げていくという本作の物語に対して、ひらがな文が有効なギミックであったということである。
 ひとびとの記憶は、時がたつにつれ鮮明さを欠き、被我の区別が失われていく。しかし、その記憶群の持つエッセンスのみがぼんやりと蓄積されてゆくと、やがて一つの人間の感性が構築される。本作は、まさにこのような淡い記憶の記述であり、黒田夏子氏の感性それ自体の記述である。そして、このような記述にもっとも最適だったのが、角ばったフォルムを採らないぼんやりとした「ひらがな」だったのではないか。
 それだけではない。この独特のひらがな文は音読を促す。そして音読によって感得したリズムはまさに感覚の問題であり、この感覚の問題がこの物語の感性的な性格とつながりを見せている。
 かくして本作において、人々の「記憶」の美しさや尊さは、七十五歳の洗練された技でもって、表現されきってしまったのである。

と思う・・・小説あまり読まないからこれで良いのかわからん。

 ところで、このような淡いものの持つ感性的な性格について、映画のフィルム/デジタルの問題でも同じようなことが言えるのではないかと考えてしまった。つまりは、なぜ僕はデジタルよりもフィルムの画が美しいと感じるのかという問題である。これは、とどのつまりフィルムの脆弱さでないか。フィルムの物質的脆さは画にモロに影響を与え、映し出されたモノの存在が人々の記憶そして感性に親和的な形で提示されるからではないか。我々は、デジタル化の中で画素数が上がり、映し出されたものの実在感が増幅すればするほど、逆に実在感のあやうさを志向するのではないか。

こんなふうに思ったとさ。

2013年2月10日日曜日

映画についての雑感part 2

こんにちは。

 最近、モーニング娘の新譜がウィークリーで3年ぶり1位になったという。すかさず動画で確認したところ、そのパフォーマンスと楽曲は、聞きしにまさるハーコーぶりを発揮していた。この曲の感想についてはしっかり文章で書きたいところだが、詳しい話は、AKBディスを含めて、時間があるときにちゃんと書きたいと思う。つんくが秋元を倒して失地回復する日は近い(のか)。

ところで、新年明けてからというもの、学生の本業(?)が忙しくて、なかなか映画館に行くことが適わなくなってきた。それでも、限られた時間の中で観た映画にアタリが多くて、意外と芳醇な映画体験ができて、幸先良いのかなと思ったり。

 たとえば、アキ・カウリマスキの『ル・アーヴルの靴みがき』(@ユーロスペース)はよかった。無口で無表情のバストショットのモンタージュが、映画ではどれほど雄弁に物を語るのかということを考えさせられる映画だった。北野映画がこのような古典的なモンタージュと突発的な暴力を組み合わせることによってニヒリスティックな世界観を演出していたのとは対照的に、本作はまさに無口のヒューマニズムとでも言うべきものが、70年代(いやもっと前か)を思わせる背景の演出との組み合わせによって、表現されていたのではないかと思う。これは元をたどると、聞く通りやはり小津に行き着くのかなとも思ったり。

 ユーロスペースでの相米慎二特集もよかった。稀に観る豪華ゲストによるトークショーもさることながら、映画としてもとても見応えがあった。特に、『セーラー服と機関銃』と『台風クラブ』の二本立てを観たときは、映画の持つエネルギーに圧倒されてグッタリ帰った、(良い思い出です)。『セーラー服と機関銃』で薬師丸ひろこに萌え死にしそうになったことは措いておくとしても、『台風クラブ』ではまたしてもいろいろ考えさせられた。昨年の邦画界は、何かと桐島でかまびすしかったが、同じ青春群像としては、この作品のほうがより過激でありながら、より繊細で深いような気がする。台風という通過儀礼が理恵を大人へと成長させる一方で、三上君をして大人になることを拒絶させてしまうコントラストや、健の「ただいま、おかえり」の口癖、さらに下着姿での「もしも明日が」の合唱などのすべてが、過剰でありながら思春期特有の繊細さを丁寧に掬い取っているように見えた。映画のリアリティというのはこういうことを指していると思う。

 そして、昨日観た『ムーンライズ・キングダム』もよかった。カットをバストショットだらけにして、画を作ることを放棄してしまっている、昨今の日本の映画やテレビドラマの制作者にこの作品を観てほしいと思った。俺たちは一体何のために映像作品を観るのか。「半径三メートルの物語」を作ることが、画作りをサボる方便には全くならないということですよ。


とはいえ、面白いテレビドラマもありますよ。。。(ワケアリ