5. 君は天然色 (大滝詠一)
成増映画/音楽研究所
音楽やら映画やらの研究をやりたい
2014年7月23日水曜日
『大滝詠一研究Ⅰ』解説
5. 君は天然色 (大滝詠一)
2014年7月21日月曜日
『her/世界でひとつの彼女』を観て映画の終わりを確信する。の巻
本編開始後せいぜい30分程度で、特定の映画好きなら誰にでも容易に想起されるセリフだ。かつて映画という媒体は、運動であったり、身体であったり、さまざまな言葉に言い換えられるのだが、そのような視点をしきりに慫慂してきた。しかし、本作品は、そのようなものが全く不在している映像を臆面もなく露にしている。その理由は明らかで、この作品が人間とOSによる恋愛を物語の要としているからである。
どういうことか。人間とロボットでもこの退屈さは起こりえない。ロボットには身体があるからである。しかし、この作品では、「OS」という、マイクロソフトエクセルもろくに扱えない文科系を自認する私にはもう理解不能の身体なき存在と人間が恋をする。そしてそれは、「言葉」が視覚を支配するということを意味している
よく観てみると誰だって気づく。ショットの殆どが、ホアキン・フェニックスのクロースアップであることを。そしてキャラクターの心情が全て言葉による語りで説明されていることを。ホアキン・フェニックスの顔芸で、二時間なんとか映画を保たせる気でいるのか、正気かこの監督は、と邪推させる開始30分である。
しかし、そんな煩型に妙な違和感を感じさせる。なぜなら、身体が躍動しうる好機が確かに存在していたからである。主人公が、恋愛相手たるOSが声を発する小型デバイスを知り合いの子供が弄ぶ瞬間。あるいは主人公の元妻が離婚手続きの書類に直筆でサインする瞬間。それらは、確かに身体が動き、映画を豊かにするチャンスであった。ところがそこで監督が行ったのは、それらショットのすぐ後で、ホアキンのただならぬ不安に満たされた表情を再びクロースアップでつなげたことである。
そこで初めて、身体が躍動しない理由、映像が停滞している本当の理由を確信する。すなわち映像の停滞が、有限たる身体や運動ではなく、普遍で無限の存在たる言語情報に心の平安を保つ主人公の人物造形と同期しているのである。それは監督の技能の欠如ではなく、あくまで意図的であることの表明なのである。
映像というメディアが豊穣な視覚体験を与えるものではなく、もはや言語情報の補完でしかないということは、テレビの登場以来、くりかえし語られてきた言説である。そして、映画をこよなく愛する者たちが、その現実にどれだけ対抗できるのかを競い合ってきたことは、誰でも知っている。しかし、21世紀からはや10年以上を経た現在、視覚としての映画はもはや青息吐息であり、映画の物語のすべてがセリフで説明され、鑑賞者も嬉々としてそれを消費する時代である。そんな時代に、本作は市場傾向に拮抗するのではなく、シニカルに言葉の物語をつむいでいるのである。
では、我々にとって本当に普遍で無限の言語情報が有限の身体に優越するのか。否である。より正確にいうと、「否。」と私が思っているのではなく、本作が「否!」と叫んでいるのである。なぜならOSたる彼女が、主人公といちゃいちゃ会話をしながらも、同時に何百何千ある他のOSと会話(そしてその一部と浮気)していることに主人公が気づき、恋愛が破綻する結末を示すからである。結局、有限たる我々は有限たるからこそ恋愛することができるということなのだ。
本作が、退屈でありながら、ある種の深みを持っているのはそういう理由にある。かくいう私も今、餃子を肴にビールで一杯やりながらパソコンに対峙している。ゆえに、普段よりもひどいタイポの繰り返しに苦しみながらこの記事を書いている。しかし、それが楽しい。有限で愚かで結構ではないかと思う。
※追記 このスパイク・ジョーンズという監督。フィンチャーを意識しとるな。というか同じ出自だから、手癖も同じということなのか。Ⅰ-Ⅲmの進行感の音楽と映像の組み合わせが『ソーシャル・ネットワーク』とクリープの関係と酷似していたし、最後のシーンは『ファイト・クラブ』だぜ。
2013年3月16日土曜日
トリュフォーやハネケの感想など
ところで、先日はトリュフォーのドワネル物5本を映画館で観た。『大人は判ってくれない』はやはり素晴らしいと思う。ジャン=ピエール・レオの不良少年の演技がよい。大人に見放された普遍的な子供の姿を丁寧に映している。こんな少年、小学校、中学校に一人や二人いた。いや、僕の地元にはもっとたくさんいた。
だが、その続編が同じように良いかと問われれば、全くそんなことはないと思う。とくに『家庭』や『逃げ去る恋』では、トリュフォーの真剣さを疑ってしまった。おそらくギャグでもなんでもないだろうところの演出で可笑しくて笑ってしまった。
そして昨日、新宿武蔵野館で『愛、Amour』を観た。映画関係者はもっとまじめに邦題を考えてあげてほしい。この感想は、時間がないのでまた後日にしたいと思う。そういえば、先日書くと予告したモーニング娘のこともまだ書いてない。こうして自発的に書いてるはずのブログの記事すら、後回し後回しになっていく怠惰よ。
では。
2013年2月18日月曜日
ギミックとしてのひらがな
2013年2月10日日曜日
映画についての雑感part 2
2012年11月3日土曜日
最近観た映画の感想など
2012年3月12日月曜日
レディヘのジョニーはリゲティを意識している説
『ノルウェーの森』(映画の方)の動画がとあるサイトにアップされていたので、一年ぶりに観かえしてみると、やっぱり悪くない映画だと再認識した。特に菊池凛子が死んだ後にマツケンが岩礁の上で泣きまくるシーンがすばらしい。「いろいろストーリーをすっ飛ばしすぎて話がよくわからねーよ」という原作ファンの憤りは確かにごもっともだが、映像美と音楽の組み合わせでキャラクターの心情を語るのがこの映画の主眼だと思われるので、オリジナル脚本のフランス映画だと思い込んで観ればそこまで怒りは感じない。
※件のマツケン号泣シーン。 (下の動画13:00頃から)
Norwegian.Wood.2010.KSTJ. Part 6 投稿者 trung_9x
荒々しい海の絶景と不協和音で構成された現代音楽を組合わせて禍々しい雰囲気を作り出す。これを観て僕がすぐに想起した映画が、ポール・トーマス・アンダーソンの『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』という映画である。この映画はオープニングから、荒野の絶景と不協和音を組み合わせたシーンが出てくる。後から調べると『ノルウェーの森』も『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』と同様にレディオヘッドのジョニー・グリーンウッドが手がけとるらしい。
※『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』のオープニングシーン
http://www.youtube.com/watch?v=hUush-WrMrM&feature=fvst
そして、この映画のファーストカットおける映像と音楽の組み合わせは、キューブリックの『2001年宇宙の旅』にそっくりである。『2001年~』の類人猿がモノリスに触れることで初めて道具を使用するシーンで、現代音楽家であるジョルジュ・リゲティの『レクイエム』という曲を流しながら、荒野を映している。
※『2001年宇宙の旅』(1:55あたりから不吉な音楽が流れ始める)
http://www.youtube.com/watch?v=ML1OZCHixR0
この繋がりを考えると、レディヘファンはジョニーの作る映画音楽の独創性を評価する前にキューブリックとリゲティを評価するべきである。(※『2001年宇宙の旅』以前に同じようなシーンを撮った映画があればご指摘ください。)
ところでどっかの記事で、映画館で映画を観る意義について誰かが「絶景を大スクリーンで観ること。」と述べていたように、これらの風景描写の本領を発揮するのは映画館のスクリーンであると思われるし、ジョニーやリゲティなんかの音楽は、ちゃんとした音響施設で聴くことでトリップできる代物であるように思われる。こういった意味でも、『ノルウェイの森』の初見を飛行機の座席に取り付けられているショボい映像機器で済ましてしまったことを後悔するしかない。
ということでなるべく映画は映画館で観ようと思ったのでした。