2014年7月23日水曜日

『大滝詠一研究Ⅰ』解説


 コンピレーションCDを勝手に作りました。以下は、その解説(もどき)です。どうぞよろしくおねがいします。



大滝詠一研究Ⅰ】                           
 本研究では、大滝詠一関連楽曲群のうち、『ロングバケーション』に代表される「メロディソング」のサウンドに影響を与えた50年代後半から60年代末までのアメリカンポップスを線で結び鑑賞することを目的とする。いわゆる「ノベルティソング」と呼ばれる楽曲群の研究および、大滝の歌唱法に関する研究は続編に譲る。

黄金期前夜:リーバー&ストーラー
 リーバー=ストーラーは50年代後期に活躍したアメリカンポップスの源流をなすコンビである。とくに彼らがThe Drifters のプロデュースする過程で、フィル・スペクターが参加したことは有名で、後のWall of Sound と呼ばれる独自のアレンジに多いに影響を与える。また、このグループ構成は、後のシレルズ等のグループのプロデュースに伝播する。
  1. Spanish Harlem ( Ben E king)
  2. Dance with Me (The Drifters)

アメリカンポップスの黄金期:フィル・スペクター
 Wall of Soundと呼ばれる大編成の同時録音で生まれる人力エコーとハイファイサウンドが特徴。同時代のポップスの中で異彩を放つ。このモノラル+マンパワーで生まれるごりごりのサウンドは、世界中にスペクターフォロワーを生み出し、その日本代表が大滝詠一なのである。
  3.  Da Do Ron Ron (The Crystals)
  4.  ウララカ (大滝詠一)
  5.  君は天然色 (大滝詠一)
『ウララカ』と『君は天然色』を聴きくらべる。直接的なオマージュを捧げる『ウララカ』よりも、『君は天然色』のほうがスペクターサウンドに近い。むしろ後者はカリカチュアと言ってもよいほどの過剰なサウンドだ。しかし影響は音響面だけではなく、ストリングスやパーカッションが生み出すリズムも同様に、スペクターサウンドのフォルムを形成しており、大滝はそれをも含めて楽曲に反映させているのである。

アメリカン・ポップスの黄金期:アルドン・ミュージック
 フィル・スペクターとともにポップスの黄金期を支えたのは、アルドン・レコード(後のスクリーン・ジェムズ)の契約作曲家チームだ。キャロル・キング、バリー・マン、エリー・グリニッチ、ジャック・ケラー等の職業音楽家たちが共同でつくりあげた上質なポップス群は、後の大滝メロディの根幹を支えることになる。中でも、キャロル・キングは、60年代前半は一介の職業音楽家(いわば裏方)であったが、70年代に入るとシンガーソングライターとして名をはせる。まさに彼女は、60年代後半に低迷を極めたポップスというジャンルが、70年代に息を吹き返した象徴的存在なのであり、アメリカン・ポップス史の生き証人なのである。(しかし、この低迷期の最初のきっかけとなったビートルズも、アメリカン・ポップスの影響が明らかに認められるのだが・・・、いやビートルズが悪いのではない。途中からビートルズに入れ知恵をしたディラン、バーズ、そしてラヴィ・シャンカールこそが戦犯なのだ!)
話を戻して、そんなキング=ゴフィン制作が次の一曲

 6. Will you love me tomorrow (The Shirelles) 
  
 大滝のメロディソングは、リズムおよびサウンド面ではスペクターから、メロディ面ではアルドン作曲家からというような仕様が多い。

  7. Be My Baby (The Ronettes) ※Producer: Phil Spector  
  8. Foolish Little Girl (The Shirelles)
  9. 夢で逢えたら (吉田美奈子)

次の曲は、キャロル・キング&ジェリー・ゴフィンとともに、アルドンの看板チームであるところのバリー・マン&シンシア・ワイルの曲(のカバー)

  10. Where have you been (The Searcher) 
  11. 恋するカレン(大滝詠一)

 大滝は、アルドン・ミュージックのポップソング群の特徴を作曲家別に整理し、適宜自分のメロディメイクに取り入れている。以下もそんな一例。(パクりといえば、パクり。けれども大滝風に言えば、「そんな寂しいこといわないでよ~」。)

  12. Venus in Blue Jeans ( Jimmy Clanton )
  13. 風立ちぬ(松田聖子)

アメリカン・ポップスの低迷:ブライアン・ウィルソン、ヴァン・ダイク・パークス
 65年を過ぎると、世の中はフラワームーブメントやらサイケデリック・ロックやらボブ・ディランやらジミヘンやらウッドストックやらで、(ニュー)ロック、フォークが大変活況であったのと反面して、従来のポップスは不調を極める。こういった状況に、当時の大滝詠一青年はおおいに困惑する。
 しかし、過ぎ去りし黄金期のアメリカン・ポップスは西海岸のシーンに受け継がれることになる。スペクターの熱烈なファンであったブライアン・ウィルソンは自身のバンド、ザ・ビーチボーイズでハイ・ファイ/高音圧のポップスを志向する。

  14. Be My Baby (The Ronettes)
  15. Don't Worry Baby ( The Beach Boys)
 サウンドはスペクターであるが、リズムは白くなっている。当時の西海岸のシーンがいかにフォークロックに特徴づけられていたかがよく分かる。

  16. Fun Fun Fun (The Beach Boys)
  17. Fun×4 (大滝詠一)
 そしてブライアン・ウィルソンの嗜好は、プロデューサーのヴァン・ダイク・パークスへ。
  18. Heroes and Villains (The Beach Boys) 

 大滝は72年、自身のバンド、はっぴぃえんどのサードアルバムの録音のため、渡米。彼らの録音現場にふらっとやってきたヴァン・ダイク・パークスは彼らの一曲をプロデュースする。
  
 19. さよならアメリカさよならニッポン(はっぴぃえんど)

 最後に、大滝がヴァン・ダイク・パークスのプロデュースを目の当たりにして一言。「細野さん。いままで聴いて来たものが、すべて一線につながったよ!
 大滝フォロワーはまずこの一線を確認するところから始まり、いよいよポップスの迷宮に踏み入るのである。                                                         つづく

2014年7月21日月曜日

『her/世界でひとつの彼女』を観て映画の終わりを確信する。の巻

 「『her/世界でひとつの彼女』は極めて退屈な映画である。」

 本編開始後せいぜい30分程度で、特定の映画好きなら誰にでも容易に想起されるセリフだ。かつて映画という媒体は、運動であったり、身体であったり、さまざまな言葉に言い換えられるのだが、そのような視点をしきりに慫慂してきた。しかし、本作品は、そのようなものが全く不在している映像を臆面もなく露にしている。その理由は明らかで、この作品が人間とOSによる恋愛を物語の要としているからである。
 どういうことか。人間とロボットでもこの退屈さは起こりえない。ロボットには身体があるからである。しかし、この作品では、「OS」という、マイクロソフトエクセルもろくに扱えない文科系を自認する私にはもう理解不能の身体なき存在と人間が恋をする。そしてそれは、「言葉」が視覚を支配するということを意味している
  よく観てみると誰だって気づく。ショットの殆どが、ホアキン・フェニックスのクロースアップであることを。そしてキャラクターの心情が全て言葉による語りで説明されていることを。ホアキン・フェニックスの顔芸で、二時間なんとか映画を保たせる気でいるのか、正気かこの監督は、と邪推させる開始30分である。

 しかし、そんな煩型に妙な違和感を感じさせる。なぜなら、身体が躍動しうる好機が確かに存在していたからである。主人公が、恋愛相手たるOSが声を発する小型デバイスを知り合いの子供が弄ぶ瞬間。あるいは主人公の元妻が離婚手続きの書類に直筆でサインする瞬間。それらは、確かに身体が動き、映画を豊かにするチャンスであった。ところがそこで監督が行ったのは、それらショットのすぐ後で、ホアキンのただならぬ不安に満たされた表情を再びクロースアップでつなげたことである。
 そこで初めて、身体が躍動しない理由、映像が停滞している本当の理由を確信する。すなわち映像の停滞が、有限たる身体や運動ではなく、普遍で無限の存在たる言語情報に心の平安を保つ主人公の人物造形と同期しているのである。それは監督の技能の欠如ではなく、あくまで意図的であることの表明なのである。
 映像というメディアが豊穣な視覚体験を与えるものではなく、もはや言語情報の補完でしかないということは、テレビの登場以来、くりかえし語られてきた言説である。そして、映画をこよなく愛する者たちが、その現実にどれだけ対抗できるのかを競い合ってきたことは、誰でも知っている。しかし、21世紀からはや10年以上を経た現在、視覚としての映画はもはや青息吐息であり、映画の物語のすべてがセリフで説明され、鑑賞者も嬉々としてそれを消費する時代である。そんな時代に、本作は市場傾向に拮抗するのではなく、シニカルに言葉の物語をつむいでいるのである。

 では、我々にとって本当に普遍で無限の言語情報が有限の身体に優越するのか。否である。より正確にいうと、「否。」と私が思っているのではなく、本作が「否!」と叫んでいるのである。なぜならOSたる彼女が、主人公といちゃいちゃ会話をしながらも、同時に何百何千ある他のOSと会話(そしてその一部と浮気)していることに主人公が気づき、恋愛が破綻する結末を示すからである。結局、有限たる我々は有限たるからこそ恋愛することができるということなのだ。

 本作が、退屈でありながら、ある種の深みを持っているのはそういう理由にある。かくいう私も今、餃子を肴にビールで一杯やりながらパソコンに対峙している。ゆえに、普段よりもひどいタイポの繰り返しに苦しみながらこの記事を書いている。しかし、それが楽しい。有限で愚かで結構ではないかと思う。


※追記  このスパイク・ジョーンズという監督。フィンチャーを意識しとるな。というか同じ出自だから、手癖も同じということなのか。Ⅰ-Ⅲmの進行感の音楽と映像の組み合わせが『ソーシャル・ネットワーク』とクリープの関係と酷似していたし、最後のシーンは『ファイト・クラブ』だぜ。