2014年7月21日月曜日

『her/世界でひとつの彼女』を観て映画の終わりを確信する。の巻

 「『her/世界でひとつの彼女』は極めて退屈な映画である。」

 本編開始後せいぜい30分程度で、特定の映画好きなら誰にでも容易に想起されるセリフだ。かつて映画という媒体は、運動であったり、身体であったり、さまざまな言葉に言い換えられるのだが、そのような視点をしきりに慫慂してきた。しかし、本作品は、そのようなものが全く不在している映像を臆面もなく露にしている。その理由は明らかで、この作品が人間とOSによる恋愛を物語の要としているからである。
 どういうことか。人間とロボットでもこの退屈さは起こりえない。ロボットには身体があるからである。しかし、この作品では、「OS」という、マイクロソフトエクセルもろくに扱えない文科系を自認する私にはもう理解不能の身体なき存在と人間が恋をする。そしてそれは、「言葉」が視覚を支配するということを意味している
  よく観てみると誰だって気づく。ショットの殆どが、ホアキン・フェニックスのクロースアップであることを。そしてキャラクターの心情が全て言葉による語りで説明されていることを。ホアキン・フェニックスの顔芸で、二時間なんとか映画を保たせる気でいるのか、正気かこの監督は、と邪推させる開始30分である。

 しかし、そんな煩型に妙な違和感を感じさせる。なぜなら、身体が躍動しうる好機が確かに存在していたからである。主人公が、恋愛相手たるOSが声を発する小型デバイスを知り合いの子供が弄ぶ瞬間。あるいは主人公の元妻が離婚手続きの書類に直筆でサインする瞬間。それらは、確かに身体が動き、映画を豊かにするチャンスであった。ところがそこで監督が行ったのは、それらショットのすぐ後で、ホアキンのただならぬ不安に満たされた表情を再びクロースアップでつなげたことである。
 そこで初めて、身体が躍動しない理由、映像が停滞している本当の理由を確信する。すなわち映像の停滞が、有限たる身体や運動ではなく、普遍で無限の存在たる言語情報に心の平安を保つ主人公の人物造形と同期しているのである。それは監督の技能の欠如ではなく、あくまで意図的であることの表明なのである。
 映像というメディアが豊穣な視覚体験を与えるものではなく、もはや言語情報の補完でしかないということは、テレビの登場以来、くりかえし語られてきた言説である。そして、映画をこよなく愛する者たちが、その現実にどれだけ対抗できるのかを競い合ってきたことは、誰でも知っている。しかし、21世紀からはや10年以上を経た現在、視覚としての映画はもはや青息吐息であり、映画の物語のすべてがセリフで説明され、鑑賞者も嬉々としてそれを消費する時代である。そんな時代に、本作は市場傾向に拮抗するのではなく、シニカルに言葉の物語をつむいでいるのである。

 では、我々にとって本当に普遍で無限の言語情報が有限の身体に優越するのか。否である。より正確にいうと、「否。」と私が思っているのではなく、本作が「否!」と叫んでいるのである。なぜならOSたる彼女が、主人公といちゃいちゃ会話をしながらも、同時に何百何千ある他のOSと会話(そしてその一部と浮気)していることに主人公が気づき、恋愛が破綻する結末を示すからである。結局、有限たる我々は有限たるからこそ恋愛することができるということなのだ。

 本作が、退屈でありながら、ある種の深みを持っているのはそういう理由にある。かくいう私も今、餃子を肴にビールで一杯やりながらパソコンに対峙している。ゆえに、普段よりもひどいタイポの繰り返しに苦しみながらこの記事を書いている。しかし、それが楽しい。有限で愚かで結構ではないかと思う。


※追記  このスパイク・ジョーンズという監督。フィンチャーを意識しとるな。というか同じ出自だから、手癖も同じということなのか。Ⅰ-Ⅲmの進行感の音楽と映像の組み合わせが『ソーシャル・ネットワーク』とクリープの関係と酷似していたし、最後のシーンは『ファイト・クラブ』だぜ。







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